競技場に関するニュース
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ガイナーレ鳥取の経済効果3.6億円、米子開催の12試合で読売新聞ガイナーレ鳥取のJ2昇格後もホームゲーム開催を可能にしようと、どらドラパーク米子・東山陸上競技場(鳥取県米子市)をJリーグ規格に改修する運動を展開している県西部の青年経済団体連絡協議会は、「12試合の開催で経済波及効果は3億6300万円」との試算を ... |
競技場に関する質問
タイのラチャマンカラー競技場
タイのラチャマンカラー競技場とはどこにあるのでしょうか?BTSの国立競技場駅のそばの競技場ですか?
陸上競技場の補助競技場(サブグラウンド)の英訳について
より、陸上競技場の表現は分かりました(Athletic stadium)。困っているのは補助陸上競技場(通称 サブグラウンド)の表現です。文字通りメインの競技場のサブグラウンドで、普段は一般利用者に使ってもらっている他、大会の際には投てき競技(やり投
羽田空港から国立競技場(代々木)への行き方
は昨年、国立競技場へ行ったとき、近くに地下鉄の駅があり、見ると大江戸線でした。浜松から乗れるように聞いたもので。ただ、(2)はモノレールに時間がかかるような気がしますが、出たところが国立競技場というのが
陸上競技場について
ってます。最近、3つの競技場で練習する機会があったのですが、その時、3つともコーナーの角度が違うような感じを受けました。1つは大学の練習場ですが、残りの2つは公認陸上競技場でした。コーナーの角度が違う
万博競技場について
場周辺で食事が取れる所または購入出来るような所はありますか?コンビニや屋台等でも良いです。2.万博競技場で開場待ちをするに当たっての注意点は?さいたまスタジアムなら「朝並び順を決める抽選がある」とか。国立競技場
競技場旅行記
きわめて無計画なジャカルタ その2(by までさん)
Sultan ホテルのビミョ〜さにホテルを移動する決心。
もともと2泊しかとっておらず、気に入ったら延泊するつもりだったけれど、排水の悪さとその対応のいい加減さ、ネット環境の悪さと移動する面倒さを比べてもいいホテルがあれば、と。
とりあえず空港でバウチャーを買ったIndotelに電話してみる。
もともと泊まりたかったCrownePlazaは相変わらずFull!
以前泊まったManhattanもFull!地域&予算でオススメされたのが
高級ショッピングモールにも近いAtletCentury。
リノベーションしてとても人気があるとのこと。
迷っているととりあえず見てから移動するか決めればよいとのこと。バウチャーはどちらにしても届けてくれるというので、スナヤン競技場を挟んだそのホテルに行ってみる。
【旅行時期】2008/11/27~2008/11/29
【エリア】
ジャカルタ
【テーマ】
ひとり旅
【投稿者】
まで
日本の旅 関西を歩く 大阪、服部緑地(by さすらいおじさんさん)
大阪府営服部緑地は北大阪急行電鉄の緑地公園駅が最寄駅の「日本の都市公園100選」にも選ばれている甲子園球場の約33倍の広さの大阪府を代表する都市公園。ちなみに大阪府で服部緑地以外で「日本の都市公園100選」に選ばれている公園は大阪市の大阪城公園、中之島公園、池田市の五月山公園、堺市の大仙公園、岸和田市の中央公園とのこと。
服部緑地は1928年に大阪府が竹林、溜池を買収して造園し1955年には豊中競輪場廃止により跡地に陸上競技場を造成した後、都市緑化植物園、日本民家集落博物館、乗馬センター、野外音楽堂、テニスコート、ユースホステル、ウォーターランド などが造成された。
現在は北大阪地域のスポーツ・レクリエーションの拠点で多くの府民の憩いの場となっている。
(写真は服部緑地回転花壇周辺の光景)
トルコ旅行記(1):はじめに(by 旅人のくまさんさん)
<はじめに>
トルコは早い時期に旅行したかった国です。アジアと欧州の接点の国であり、ペルシャ、今のイラクと並んでシルクロードの西の出発点であり、日本とも古くから縁があった国のためです。そのことと併せ、テレビや雑誌の写真などでしか見たことがなかった、カッパドキアやパムッカレなどの景勝地も、一度訪れてみたかったためです。
旅行パンフレットを昨年から捜していて、最初に目にしたのは、Ki社の「トルコ周遊9日間」でした。募集期間は昨年の10月から、今年の3月末まででした。その旅行の基本料金は、安い時期でも26万円ほど、一人部屋追加代金、サーチャージなどを加えますと、30万は超えてしまう金額でした。この金額なら、他に行きたい旅行先がありました。それで、年始めの旅行は、別の国にしました。
ところが、次に目にしたパンフレットは、それより10万円ほど安いプランでした。最初のパンフレットは、9日間をかけてトルコ各地を巡る計画でしたが、今度は、イスタンブールからアンカラを経由して、カッパドキアへの往復の簡略化したプランでした。
それで、3月から4月の中頃にトルコ旅行を決行することにして、更にパンフレットを探しました。その結果、更に5割ほど安いプランが見付かりました。実際に利用したH社の「イスタンブール&カッパドキア7日間」でした。
そのプランは、基本料金が8万円を切っていて、タックスや保険料、1人部屋追加料金を併せても12万円台の半ばで済みました。ドバイ空港での乗継時間が10時間などの難点はありましたものの、かなりお値打ちなプランでした。申し込みを終えたのが、出発より1ヶ月以上早い、2月の半ばでした。
日程は、ベストシーズンに近い3月末近くの30日出発、4月5日帰国としました。ベストシーズンの4月に入れば、1、2万円ほど高く、ゴールデンウィークでは2倍の料金が設定してありました。
今回の旅行では、パムッカレの石灰棚は見学できませんでしたが、こちらはトロイ遺跡等と併せ、別の機会に見学したいと考えています。
拙い文章と写真でお届けするトルコ旅行記です。最後までお付き合い戴ければ幸いです。
旅のはじめに
大陸を橋で結びし古の都巡りて旅は始まる
*元資料の手造り旅行記『トルコ旅行記』の目次です。副題は『 アジアと欧州、接点の国』です。
<目 次>
<はじめに>
<2007年3月30日(金)>
夜のセントレア出発、ドバイへ(3)
<2007年3月31日(土)>
ドバイ到着、10時間のトランジット(5)
オーストラリアのニコラスさんと(6)
ドバイ出発、イスタンブールへ(8)
イスタンブールへの航路(9)
イスタンブールへ到着、全員集合(10)
ホテルへ、早速外出(10)
<2007年4月1日(日)>
早朝の散歩(12)
イスタンブール市内見学へ(13)
大競技場址(14)
ブルーモスク(15)
アヤソフィア大聖堂を横目にトプカプ宮殿へ(16)
トプカプ宮殿(18)
ハレムについて(20)
ハレムの権力闘争(21)
トプカプ宮殿のレイアウト(21)
昼食の後、アンカラへ(23)
アンカラ到着、夜の散策(24)
<2007年4月2日(月)>
早朝の散歩(26)
アタチュルク廟(27)
カッパドキアへの途中で立ち寄った塩湖(28)
カッパドキア到着、洞窟レストランでの昼食(29)
最初のカッパドキア見学(30)
ギョメレ屋外博物館(30)
隊商の宿、キャラバンサライ(32)
再びカッパドキア(33)
ホテルでの夕食(34)
<2007年4月3日(火)>
翌朝の雪景色(36)
雪のカッパドキア(37)
桜のカッパドキア(38)
陶芸工房(38)
カイマクルの地下都市(39)
昼食の後、絨毯工場へ(41)
アンカラへ戻り(42)
<2007年4月4日(水)>
アンカラからイスタンブールへ(44)
タクシム広場(45)
グランドバザール(46)
イスタンブール空港からドバイ空港へ(47)
<2007年4月5日(木)>
深夜にドバイ空港出発、セントレアへ(49)
<おわりに>
謝辞(50)
*元資料の写真資料の目次です。
<写真目次>
夜のセントレア空港出発 (1)
夜間飛行、ドバイ空港到着 (3)
ドバイ空港で乗継、10時間待 (4)
ドバイ空港出発、イスタンブールへ (11)
イスタンブール到着、夜の散策 (17)
早朝の散歩 (19)
朝食、イスタンブール市内見学へ (21)
大競技場址 (23)
ブルーモスク (29)
アヤソフィア大聖堂へ (41)
トプカプ宮殿 (45)
昼食後、アンカラへ (61)
アンカラ到着、夜の散歩 (64)
早朝の散歩 (66)
アタチュルク廟、カッパドキアへ (69)
塩湖、トゥズ (71)
カッパドキア到着、洞窟で昼食 (74)
カッパドキア (81)
ギョメレ屋外博物館 (85)
キャラバンサライ址 (101)
再びカッパドキア (106)
ホテルでの夕食 (109)
翌朝の雪景色 (112)
雪のカッパドキア (113)
桜のカッパドキア (116)
陶芸工房見学 (121)
カイマクル地下都市 (127)
昼食の後、絨毯工場へ (131)
アンカラへ、ホテル界隈 (133)
イスタンブールへ (134)
タクシム広場 (137)
新市街から旧市街へ (140)
グランドバザール (141)
帰国 (144)
<付録> 搭乗券等
トルコ旅行記(4):4月1日:イスタンブール・大競技場址、ブルー・モスク(by 旅人のくまさんさん)
<2007年4月1日>
夜の散策を終えてから、シャワーを浴びて、就寝したのは23時頃でした。昨日現地ガイドのスワウィさんからモーニングコールが6時半、7時から食事、7時半に荷物出しで、ホテル出発が8時と、スケジュールをお聞きしていました。実際に起きたのは、6時前でした。モーニングコールの時には、全て出発準備が済んでいました。曇りでしたが、昨晩の天気予報では、回復に向かうようでした。
<早朝の散歩>
昨晩に続いてホテル界隈を散歩しました。モーニングコールが鳴った後、6時半に外出しましたが、あたりはまだ薄暗い状態でした。曇りがちで、殊更薄暗かったのかも知れません。
少し肌寒い気温でしたが、歩き始めるとその寒さが気にならない程度でした。一枚余分に着込んでいたことで、大分違っていたようです。朝早い時間ですから、さすがに人通りはありませんでした。そんな中でも、パトロールカーが横断歩道橋の近くに停まっていて、若い警察官の方が歩いてパトロールしていました。
路面電車も動き始めていましたが、車内の明かりで確認できたのは、数える程の乗客でした。その電車乗り場も確認して、カメラに収めておきました。最終日の自由時間の行動のためです。
昨晩と同じように坂を下って、ロータリーがある広い交差点まで歩きました。片道、10分とはかからない距離です。こちらでは、通勤バスなどが行き交始めていました。道路の案内表示には、トプカプ宮殿方面が記されていました。朝食に時間に合わせ、7時にはホテルへ戻りました。
<イスタンブール市内見学へ>
世界文化遺産に指定されたイスタンブール市内見学の後は、そのままアンカラへ向かって移動です。荷物を纏めての出発でした。全員が同じホテルに投宿していましたから、時間通り、8時の出発となりました。
少し冷え込んでいましたから、ガイドのスワウィさんは、防寒の用意を勧められていました。それと併せて、朝の内は、はっきりしない天候でしたから、雨具の用意も必要でした。寒さの方は、準備が役立ちましたが、雨具は杞憂に終わりました。
最初に向かったのは旧市街の大競技場址です。その場所からは、昼食の時間までは、歩いての見学となりました。
<大競技場址>
大競技場址は、正式には「ヒポドローム」の名称です。古代ローマ時代の戦車競技場址です。小さい頃、映画「ベンハー」で馬に引かせた戦車競争シーンを見ましたが、それと同じ場面のレリーフを、この遺跡址で目にしました。4世紀にコンスタンティヌス帝によって造られました。
この競技場の広さは、長さ400m、幅が150mあったとされます。収容人員が3〜4万人と言う大規模なものでした。現在は三つの遺跡が残っているだけです。それを順次紹介します。
最初はテシオドウスのオベリスクです。もともとは、古代テーベ(現ルクソール)のカルナックのアメン大神殿にあったものです。トトメス三世が第7塔門の南に2本一対として立てたものの1本です。
4世紀にビザンチン帝国の皇帝コンスタンティウス二世の命令で、このオベリスクは一旦アレキサンドリアに運ばれましたが、最終的には皇帝テオドシウス一世の命令でコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に運ばれ、390年に、ここに立てられました。
碑文には、シリアのユーフラテス渡河など、紀元前1550年のトトメス三世の軍事的偉業を讃えている文章が読み解かれています。
二つ目が青銅製の蛇のオベリスクです。これも歴史的には重要な意味を持っています。ギリシャが、ペルシャを打ち負かしたペルシャ戦争(BC500〜BC449)において、ギリシャ軍が決定的勝利を収めたのがプラタイアの戦い(BC479年)でした。その勝利を記念して、ギリシャのデルフォイのアポロン神殿に立てられていた記念碑です。その記念碑は、コンスタンティヌス帝の4世紀前半頃、この地に運び込まれたようです。
今は上部が折れてしまっています。3匹の蛇が絡みつき、三つの頭を持っていたという、当時の姿は想像する以外にありません。
3つ目が、謎に包まれたコンチタンチノープルのオベリスクです。切石積みのオベリスクとも呼ばれています。このオベリスクの詳しいことは分っていません。切石の表面は、元来は青銅で覆われていたようですが、現在は剥き出しとなり、表面には無数の穴が残っています。
これは13世紀初頭、ヴェネチア商人の侵入(第4回十字軍)に際して、彼らが貨幣鋳造のために削り取ったためとも言われています。
<ブルーモスク>
フリー百科事典の「ウィキペディア」を引用して、先にイスラム教の礼拝堂である、「モスク」について説明します。
アラビア語ではマスジド(masjid)で、「ひざまずく場所」の意味です。イスラム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語に訛ってメスキータ(mesquita)となり、それが英語では更に訛ってモスク(mosque)となったとされます。ドイツ語ではモシェー(Moschee)です。モスクは、欧米や日本における呼び名です。しばしばイスラム寺院と訳されますが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場を意味します。
本題のスルタンアフメット・モスクのことです。外部からは想像がつきませんが、内部の壁が、美しい青と白のイズニックタイルで飾られていることから、通称、ブルーモスクという名で、広く知られています。
アヤソフィア大寺院と向かいあうように建っている優雅な6つの尖塔を持つブルーモスクは、1609年に着工され、1616年に完成しました。建築家メフメットによって建てられました。このモスクは、夏の夕べには、光と音のショーが繰り広げられるそうです。
オスマンは建物の躯体こそ破壊しませんでしたが、キリスト教文化の中でも偶像崇拝だけは我慢がならなかったようです。偶像崇拝が禁じられるイスラムの教えに従って、モザイクは薄い漆喰で塗り固められ、はずされた十字架の代わりにアラビア文字によるモハメッドの言行を書いた看板に付け替えられました。黒地に金文字で木製の看板が掲げられています。書道文字です。
<アヤソフィア大聖堂を横目にトプカプ宮殿へ>
ブルーモスクとアヤソフィアは、綺麗な公園を挟んで行儀良く並んでいました。その中間点近くに椅子席があり、「ここが絶好の撮影ポイントです。どちらの建物も均等に見えます」と、スワウィさんが教えてくれました。暫くは記念撮影タイムです。地元の学生さんたちらしい方達とも一緒になって記念撮影をしました。
アヤソフィア大聖堂は、中まで入って見学は出来ませんでしたが、今は博物館として公開されています。
その数奇の運命を辿ったアヤソフィア大聖堂について、インターネット情報を参照しながら説明しておきます。
アヤソフィア大聖堂は、ギリシャ正教の総本山の教会堂として、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝により325年に建設が始まり、360年に完成されました。
幾度か焼失後、ビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝により537年に再建されましたが、オスマン帝国がコンスタンティノーブルを征服後は、大聖堂からイスラム教のモスクに改装されました。ギリシャ語でHagia Sofia、アヤソフィアとは、「神の知恵」という意味です。
中央に高さ54m、直径31mの大ドームがあります。1453年、メフメット二世が、ここでオスマン朝のコンスタンティノーブル征服を宣言しました。今に見る4本のミナレットは、モスクに改装されたあと、別々のスルタンにより建立されたためデザインが異なります。
創建された後、何回か焼失し、あるいはモスクに改造されるなど、幾多の変遷を経ました。それを年代順に纏めて記しておきます。
○360年に、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝により創建。
○404年に、大火で全焼。
○416年に、再建。
○532年に、反乱により破壊。
○537年に、ビザンチン帝国のユスティニアヌス皇帝が、ビザンチン様式の大聖堂として再建。
○726年に偶像破壊が始まり、834年頃まで続いた。
○843年に、宗教シーンをテーマにしたモザイク画が完成。
○1204年に、第3次十字軍により財宝が奪われ、モザイク画の多くが損傷。
○1453年に、オスマン帝国の征服王、スルタン・アフメットにより、モスクへの改造命令。
○1700年に、残されていたモザイク画も漆喰で塗り潰し。
○1931年に、アメリカ人調査隊により、塗り籠められた壁の中のモザイク画を発見。
○1933年に、トルコ共和国によりモザイク画等を大修復。
インターネット情報の中には、現在もアヤソフィアの財産権を巡る争いが決着していないことも、最近のニュースとして載っていました。その数奇の運命は、まだ終っていないようです。
ビザンチン帝国が終わりを告げるまで、ギリシャ正教の大本山として崇められた時代と、モスクとしての時代が存在することで、聖地争いのベツレヘムのような背景があるのかも知れません。ただし、これは単なる私の推測です。
次に、アヤソフィアの建築や改造の中で、特筆すべき点を、インターネット情報を参照して記しておきます。最初に、ユスティニアヌス皇帝による537年の再建工事です。
その再建工事の工期は5年10カ月、木材は全く使用されず、完成までには延べ100人の監督と1万人の土木工や大工が働きました。 用いられた大理石は、地元のアナトリアは元より、地中海諸国からイスタンブールに搬入されました。巨大なドームを軽量に仕上げるために、煉瓦は特別にロードス島で焼いたものが使用されました。権力、財力、技術力に加えて信仰心と芸術的センスの結晶とされます。
次に、726年に始まった偶像破壊期と、その後の改装の模様です。
他の教会と同じように、アヤソフィアの宗教シーンや聖人を表現したモザイクは破壊され、簡素な十字架などがこれにとって代わりました。破壊の後は、皇帝の意向により宗教シーンをテーマにした金色の地の上にモザイク画で、天井や壁が美しく飾られました。
その後、コンスタンチノープルをオスマントルコが征服してイスタンブールと改名すると、1453年にオスマンの征服王、スルタン・アフメットは、ここをモスクに変換させるための命令を下しました。寺院の内装は大幅に変更されましたが、寺院そのものは破壊されませんでした。アヤソフィアが持つ不思議な運命と魅力の1つです。その後、イスラム神学校やミナレットなどが、次々と増築されました。
<トプカプ宮殿>
フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照して、トプカプ宮殿について説明します。まず、トプカプ宮殿の名前の由来ですが、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」が、トルコ語で「トプカプ」であることに因んでいます。19世紀に、この宮殿から皇帝が去った後の呼び方です。現地ガイドさんも、最初に教えてくれました。
トプカプ宮殿は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住しました。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分です。三方をボスポラス海峡、マルマラ海と金角湾に囲まれています。
メフメト二世が、1460年代頃造営を開始し、1478年頃までに完成しました。メフメト2世がここに居を定めてからは、「新宮殿」(サライ・ジェディードあるいはイェニ・サライ)と呼ばれ、また、イスタンブールに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれました。
その以降は、1453年にコンスタンチノープルを征服して以来の宮殿は「旧宮殿」と呼ばれるようになりました。
宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能しました。君主(のちには大宰相)が主催するオスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は、宮殿の「ドームの間」(クッベ・アルトゥ)と呼ばれる部屋で開かれ、古い時代にはさらに「ドームの間」の隣には中央政府の書記局と、帝国の公文書や宝物・税金を蓄える国庫が置かれました。
17世紀中頃に大宰相の執務所と書記官僚の文書行政機構が大宰相公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に移ると、宮殿はオスマン帝国の最高政務機関としての実質を失いました。
その後もトプカプ宮殿は皇宮として、帝国の儀礼と公式行事の中枢でしたが、1853年に宮廷が西洋風のドルマバフチェ宮殿に移ってからは放置され、荒廃しました。
トプカプ宮殿が修復された上、博物館として一般に開放されたのは、トルコ共和国となった1924年のことです。今回の旅行では1時間以上の自由時間がありましたから、比較的ゆっくり見学できました。
最初の帝王の門を潜ったところに警備の兵隊さんがいましたが、「写真を撮ってもいいですか?」とデジカメを見せて確認しましたら、笑顔で「OK]サインを出してくれました。
<ハレムについて>
日本語では「ハーレム」と表記されることが多いですが、学術的にはトルコ語の発音に近い「ハレム」の表記が一般的とされる「ウィキペディア」の説明に従い、この小冊子では「ハレム」に表記を統一しておきます。
オスマン帝国のハレムには、美人として有名なカフカス出身の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えました。現地ガイドのスワウィさんも、ハレムの説明の時、同じ人数を挙げられていました。
戦争捕虜や、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった女性たちは、イスタンブールで購入されると君主の宮廷のひとつに配属され、黒人の宦官によって生活を監督されながら、歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身に付けさせられました。その後、侍女としてスルタンが住まう宮殿のハレムに移されました。
スワウィさんは、ハレムは黒人宦官、王宮の警護は白人宦官が警護に当たっていたと説明されていました。
当初、ハレムは旧宮殿に残されていましたが、スレイマン1世の時、このトプカプ宮殿に移されました。ハレムの人々は、スレイマンの夫人ヒュッレム・スルタンを端緒として16世紀後半頃から政治に介入するようになり、17世紀には君主の母后が政治を自由に動かす「女人の天下」と呼ばれる時代を迎えました。
ハレムは君主の母后、妃、子供たちと、それに仕える多くの女官や宦官が暮らしていました。政治の中心が移った後年、帝位に就いていない皇族である君主の弟や甥たちが暮らす「鳥かご」(カフェス)と呼ばれる部屋も設けられました。
トプカプ宮殿のハレムの見学は、外廷の「ドームの間」の側にある「車の門」から入ることになります。今回は、時間の都合で外観だけを見学し、ハレムの内部までは見学しませんでした。
ハレムの見学は、別料金です。時間を切って、グループ単位に行われるようです。そんな事情で、インターネットで探し出したハレムの写真を紹介しておきます。(写真省略)
<ハレムの権力闘争>
新しい皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちの運命です。
時には皇帝から重臣に下賜されることもありましたが、多くの場合、皇帝の死去とともにトプカプ宮殿外の「嘆きの家」という離宮に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命でした。
ところが、征服王メフメト二世からの掟により、スルタンに即位した皇子以外の皇子達は、全て死刑にされる事になりました。また、代が代わった場合、前皇帝の妊娠している側室たちは、生きたまま袋に詰められ、ボスフォラス海峡に沈められる事になりました。
ところで、スルタン・メフメト二世(1432年〜1481年)は、オスマン帝国の第7代君主です。コンスタンチノープル(コンスタンティノポリス、現在のイスタンブール)を征服して、オスマン帝国の版図を大幅に広げ、征服王と呼ばれました。
このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン帝国のハレムの女性達の間で、権力闘争が激しくならざるを得なかった状況があったようです。
<トプカプ宮殿のレイアウト>
トプカプ宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なり、また数多くの庭園と離れ(キョシュク)を持つ建造物群です。このことから、「中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿」、と説明されることがあります。因みに、キョシュクは、日本で使われている駅の売店のキヨスクの語源となっています。現地ガイドさんも、遊牧民からの文化の影響については、何度か言及されていました。
宮殿のある丘は、古代ビュザンティオンのアクロポリスのあった場所に当たります。宮殿の外壁はこの丘を大きく囲み、外壁内の総面積は約70万平方²程です。宮殿の正門は、アヤソフィアの側にある「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)となります。
「帝王の門」を潜ると、「第1の中庭」に入ります。オスマン帝国時代も現代も、一般の人々が自由に出入りできます。東ローマ帝国時代の遺構であるアヤ・イリニ教会もここに位置します。
「第1の中庭」の他の「帝王の門」内の空間は、君主の庭園や離宮が営まれており、タンジマートの指針を宣言するギュルハネ勅令が発布されたギュルハネ庭園が残されています。
外壁内の宮殿敷地の内側にある、第2の城壁で囲まれた縦横200m×400mほどの長方形の空間が、君主の私邸であるトプカプ宮殿の本体部分です。その内部は、行政と公式行事の行われる場である外廷(ビルン)と君主の私生活の場である内廷(エンデルン)、そして女性たちの住む後宮(ハレム)の三つの部分からなります。
「第1庭園」の奥にある「挨拶の門」(バービュッセーラム)が宮廷の入り口です。かつては、許された者しか入ることができず、現在はトプカプ宮殿博物館の入口となっています。
「挨拶の門」の内側は「第2の庭」と呼ばれる、公式行事に使われた広場で、これを外廷の施設が取り巻く。御前会議の開かれた「ドームの間」や国庫はその一角に位置する。かつての国庫は、現在は武具展示室となっています。
「第2庭園」の正面奥には「幸福の門」(バービュッサーデ)とよばれる門があり、その奥にある「謁見の間」(アルズ・オダス)と呼ばれる建造物を中心とする「第3庭園」とそれを取り巻く施設群が内廷を構成しています。内廷には君主の私室(ハス・オダ)や、有名な「トプカプの短剣」が展示されている宝物庫があります。
内廷では、数百人のイチ・オーランと呼ばれる君主の小姓たちが、私室や財宝庫などの管理役を勤め、君主に奉仕しました。小姓たちはここで幹部候補生として高度な教育を受けて、外廷の職や軍の将校などの要職につけられ、また内廷で私室長や太刀持ち役などの皇帝側近の重職に出世すれば、地方総督職などを経て、将来的には宰相にまで出世することが可能な制度が確立されていました。
後宮(ハレム)の入り口は、外廷の「ドームの間」の側にある「車の門」と内廷の皇帝の私室の脇にある「クシュハーネ門」があります。
<昼食の後、アンカラへ>
世界文化遺産のイスタンブール市内の見学を終え、昼食はシシカバブーでした。それにポテト料理と野菜、春巻き風の揚げ物と、ご飯も副えられていました。
車は欧州サイドから、橋を渡ってアジアサイドへ向かいました。越えた橋は、ボスポラス海峡に架かっているものです。やがて郊外へと向かいましたが、最初は歴史を思わせる建造物、次に中高層のマンションが見え、そして郊外の風景へと変わり、やがて日も落ちました。
<アンカラ到着、夜の散策>
アンカラへ到着したのは、7時半頃から8時頃だったようです。夕食はホテルのレストランでした。この日もワインを注文しました。その値段です。地元ワインのフルボトルが30トルコリラ、ハーフサイズの場合が17リラ程度、グラスの場合が7リラ程でした。この値段は、各地で余り変わりませんでした。そのトルコワインですが、飲んだものは、共通して白は爽やかでフルーティ、赤はタンニンが少なく軽目と言った印象です。アナトリア地方はワイン7千年の歴史を持ち、世界最古との評判もあります。
食事の後は、ホテル界隈を散歩してきました。泊まったホテルはホテル街の一角にありましたので、前の通りを左右に散歩してきました。ホテルを出て右手の方向は、何となく怪しげなお店が並んでいましたし、その場所を過ぎると急に暗くなりましたから、その反対方向に歩きました。
近くには、大衆食堂やコンビニも何軒かありました。その先で、道路が広くなってバスターミナルがありました。こちら方向は緩い上り坂でした。居酒屋がなく、夜はコンビニで買ってきたペットボトルで水割でした。
大競技場址で
戦勝の碑は運ばれて遠き地に次の戦の勝者の町へ
ブルーモスクで
円形の巨大燈具は整然と淨きモスクの床を照らせる
アヤソフィアで
ミナレット数奇の歴史標す如ドームの四囲に姿違える
トプカプ宮殿で
声掛けて笑顔絶やさぬ衛兵は年まだ若く城門に立つ
70歳以上の全国サッカー大会(国立競技場)(by 白くまさん)
日頃はシルバーシートの常連も、
ピッチに出ればこの通り!
年金生活者…恐るべし!
↑不適切な表現であれば訂正します。
競技場とは?
競技場(きょうぎじょう)は、スポーツなどの競技を行うための施設である。観客席のついた競技場はスタジアムとも、全面に屋根がついたドーム型の競技場はドームとも呼ばれる。
競技場は競技を行うという意味ではどの競技場でも共通することだが、競技場の形や構造は行う競技によって様々である。
また、例えば野球場であれば野球のほかにソフトボールが、陸上競技場であれば陸上競技の他にサッカーやラグビーが行えるように、一つの競技場で行える競技は必ずしも一つとは限らない。
スポーツ施設 きようきしよう
競技場 *
競技場の詳細